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「さとやま」ってなに?

私たちが再生を目指す「里山」についてご説明いたします。

かっちゃんのつぶやき 里山のある街・北鎌倉で生まれ育ったかっちゃんこと川上克己さんが里山への熱き思いをつづります。

【vol.1】ホオジロの囀り、早く帰ってこいよ~

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雑木林は“子ザルたち”の楽しい遊び場

子どもの頃の、我が家の表札の地番は「鎌倉郡大船町台〇〇番地」。後期高齢者(75歳)と言われるこの年まで、生まれも育ちもこの地で過ごしてきた。当時は鎌倉市に編入されていない、住居も半数が関東大震災に倒壊せずに残った茅葺の家が多く文字通りの郡部で、里の風情があった。その頃「台本村」と呼ばれ、台峯の北斜面の裾の小さな谷戸の中に数百年以上住み続ける、戸数36軒の集落でわずかな田畑を耕して暮らしていた。

我が家もその中の一軒だ。家は台の東の外れで、集落の一番高い処に在り、地域の人達は我が家を「天台」と呼んでいた。親父もその名は峯次郎、台の峯ちゃんと呼ばれて、台峯の申し子みたいなものだった。親父っ子だった私も台峯に愛着を持ち、台峯のかっちゃんとして、暇さえあれば台峯に潜り込んで自然相手の遊びに興じて楽しんでいた。

幼い頃は罠を仕掛けホオジロを捕り、いたずら盛りの頃は空気銃で小鳥を捕り、若い頃には猟犬を連れて、ウサギやコジュケイを追いまわしていた。世の若者たちの遊びに背を向けて、台峯と共に青春を過ごしてきた。と、言えばカッコもよいが、女にもてずにいたから、ただ一人、淋しく台峯に引きこもっていただけの話である。

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ホオジロ

世帯を持つ頃になって、殺生を続けている自分が怖くなり猟はやめた。きっかけは、コジュケイの群れの一羽を仕留めたとき、たぶん親鳥だったのだろう、逃げずにキョッ・キョッと鳴いて子を呼び続けていた。鳥でさえも親子の情がある。自分の罪深さに気づき、懺悔に気持ちになり、猟期明けの初日にもかかわらず、何丁もあった鉄砲も、買い溜めてあった多数の弾丸も処分した。このまま殺生を続けていれば、やがて子を持つ親になったとき、命を奪った生き物に祟られてしまう、そんな恐怖におそわれたのだ。

それ以後も台峯とは離れがたく、心を改め、ころっと転んで、日本野鳥の会に鞍替えをして会員となり、鳥を食べる人から愛する人に鞍替えをした。それ以後、鳥を捕らずに写真で撮ることに熱中した。若い頃の台峯には野鳥は種類も数も今よりもはるかに居たが、近年台峯は荒れはて、めっきり鳥は減ってしまった。餌場が失われたのだ。現在は野鳥の復活のために、野鳥の会を辞めて、荒れた里山の手入れをし、昔馴染みの台峯の野鳥たちの復活を願って、餌場や住みよい環境作りに専念して汗を流しているが、いつの日か自然が蘇るのだろうか。

・・・近隣の“子ザルたち”の嬌声、野の花も、ホオジロの囀りも、早く帰ってこいよ~・・・・

川上克己(かわかみ・かつみ)
昭和13年生まれ。台峯のふもとの台に生まれ台に暮らす。15歳から働き始め、貯めたお金でカメラを買う。以来、台峯の暮らしと自然を撮り続け、台峯保全に大きな貢献をした。定年後は、地元小学校や鎌倉市内外の市民団体などの要請で台峯を案内する一方、里山インストラクターとして台峯、六国見山森林公園、明月荘の手入れに積極的に参加、多忙な日々を送っている。

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